沿革
DECADE 1(1947~1956) 伝統遠き
1947(昭和22)年春、旧制新潟中学校最後の年に、青山のグラウンドに初めてボールが蹴り上げられた。この年は新発田高校・新潟工業高校・新潟商業高校・北越商業(現北越)高校にもラグビー部が創設され、旧制新潟高校や新潟医大の先輩らの胸を借りながら、対抗戦を通じて切磋琢磨した。当時、戦後の物資の窮乏は甚だしく、スフ(人造繊維)のジャージ、裸足にストッキングという姿でボールを追っていたという。
ラグビーの経験者はいなかったため、創設期には、柔道や剣道(当時はGHQの指令により、武士道に関わる競技が禁止されていた)の有志などを集めてチームがつくられた。のちに新潟高校に33年在職する関根彰圓(59期)は、グライダー部に所属していた。当時は、国体に出場することが大きな目標であり、毎年東大ラグビー部のコーチを受けながら、実力を蓄えていった。1949(昭和24)年には、国体予選(当時は北関東代表)で高崎(群馬)を破ったものの、決勝の水戸農業(茨城)戦では、水害のため上越線が不通となり、大回りをして会場に入る不利を強いられ、代表となることができなかった。
初めての「花園」へのチャンスは、程なく訪れた。1950(昭和25)年のチームは、FW・BKの均整がとれており、北陸予選を突破すれば全国大会への道が開かれた。1回戦は石川代表の金沢二水を破り、決勝の富山南戦を迎えたが、同点で反則数が1個多かったため、富山南が花園への切符を手にした。なお、この時のメンバーの大塚満弥(59期)は、同志社大学に進み、SHとして日本代表に選ばれ、ケンブリッジ大学などとの国際試合に出場した。
この後、部員不足に悩まされる一方で、城北(東京)との定期戦などを存続させたが、1954(昭和29)年4月4日未明の校舎火災により、授業が2部制を余儀なくされるなどラグビー部を取り巻く状況は厳しくなり、1956(昭和31)年度以降4年間の休部となった。
DECADE 2(1960~1970) 古き誇りを
どんなスポーツであれ、選手の力だけでも、指導者の力だけでも頂点を極めることは難しい。互いの熱意がグラウンドという「るつぼ(melting pot)」で一つになり、初めてチームとしての勝利の喜びが得られる。1960(昭和35)年は、その点で画期であった。関根彰圓が母校の社会科教諭として着任し、岸田哲男(61期)をコーチとして、ラグビー部の再建に取り組み始めたからである。関根は、高校卒業後、京都大学でもプレーを続け、東西対抗戦にもCTBとして出場した。当時の先端のスキルを身につけたコーチが教えることは、チームの実力向上に計り知れない影響を与えた。また、昭和50年代以降は、ラグビー部の精神的支柱として、チームをサポートした。
当時の新潟高校は、校舎が再建し、ようやく普通の高校生活が送れるようになった時期にもあたり、1962(昭和37)年にはバスケットボール・卓球・柔道・テニス・ボート・フェンシング・レスリングがインターハイに出場するなど、文武両道をモットーとする本校の真価が表れてきていた。ラグビー部においても、部員はなかなか増えなかったが、それでも関根の着任3年目の春季リーグには2位に入るなど、着実にチーム力を上げていった。
現役・OBたちの努力の結果は、意外にも早く大きな花を咲かせた。1963(昭和38)年の山口国体出場である。この年、池田斉がラグビー部監督に着任した。池田は、秋田高校を卒業後、東京教育大(現筑波大)に進んで活躍した。この年のチームは、折戸明主将(後に慶應大に進みプロップとして活躍、学生日本代表となった)を中心とした大型チームで、春から新発田が最大のライバルとなっていた。春季リーグで新発田に逆転勝ちをして優勝すると、国体出場を目指して3年生が残り、練習を積んだ。秋に行われた国体県予選は危なげなく勝ち進み、関東地区予選では下伊那農業(長野)・高崎を撃破して、創部以来第一の目標としてきた本国体出場を果たした。
本国体の会場は山口県。宿舎と会場の距離が遠いなどのハンデはあったが、部員は満を持して試合に臨んだ。相手は小倉工業(福岡)。後に法政大に進み、日本代表のSOとして活躍した桂口を擁するチームで、彼の動きに翻弄され、実力を出し切れないまま押し切られた。初陣の悲しさでもある。なお、この当時選手と帯同した佐藤(旧姓吉田)悦子は、日本ラグビー界初の女子マネージャーとして会場の人気を集めた。
1965(昭和40)年に入ると、新潟工業の黄金時代が始まる。「花園」はあくまで遠く、部員も3年の春季リーグ(現高校総体)で一区切りをつけ、その年の秋のシーズンは後輩(1・2年生)チームに託する形が続くことになる。部員も各学年決して多いとは言えなかったが、1967(昭和42)・1968(昭和43)・1970(昭和45)年の3回にわたり、春の県総体で新潟工業に次いで準優勝となるなど、一定のレベルを維持していた。この時期を通じて、FWの劣勢を俊敏なBKと鋭いディフェンスでカバーするチームスタイルがつくられていった。
この時期、忘れてはならない出来事がある。1963(昭和38)年の全国大会1回戦で、創生期OB歌代荘平がレフリーを担当したことである。全国で花園の試合の笛を吹ける者は限られており、チームに先駆けて全国の舞台を踏んだことは特筆されよう。
DECADE 3(1971~1980) 嗚呼青陵に生気あり
学生運動の嵐が収まる中で、本校では学内のまとまりをつくる意味もあり、体育授業で大幅にラグビーが取り入れられた。授業でラグビーの楽しさを経験した生徒たちもラグビー部に入部するようになり、部員数も1学年でチームが作れるようになっていった。
1971(昭和46)年度の3年生は大型チームであった。その年花園でベスト8となった新潟工業と春の総体で決勝を戦い、前半は3-8という互角の戦いであった(最終スコアは8-26)。諦められない3年生は秋の国体予選まで残り、代表の座をかけて新潟工業と再度対戦したが、夏合宿を通じて着実にチームを作ってきた新潟工業に敗れ、和歌山国体出場は夢と消えた。
翌年のチームは抜群の切れ味を持つBK力で春の総体を勝ち上がり、三たび新潟工業と決勝で対戦した。このときも前半は互角の戦い(4-9、最終スコアは7-32)。この時期、春シーズン(3年生中心のチーム)は新潟工業にも十分戦えるだけの実力を備えており、1974(昭和49)年も2位、1975(昭和50)年は後半20分まで10-10の同点で戦い、あと一歩まで新潟工業を追い詰めた。1976(昭和51)年は、準決勝で新潟工業が敗れ、新潟商業と決勝を戦ったが、相手のエース梨本(明治大のプロップとして黄金期を築く)の突進をどうしても防ぎきれず、2位。翌年は、県選抜チームのプロップにも選ばれた坪野俊広を擁して臨んだが、勇将梨本の活躍と坪野の負傷もあって新潟商業に敗れ3位。その次の年もバランスのとれたチームであったが、大会直前にPR野口の負傷もあって、県総体準決勝で新潟商業に僅差で敗れ3位。どうしても次の壁を越えることができない時期が続いた。
この時期は、ラグビー部にとって大きな環境の変化が続いた。まず、ルール面の大改正が行われた。特に1971(昭和46)年にトライが4点となり、展開ラグビーを指向するチームには追い風となり、FWに偏重してきた高校ラグビーに大きな変化を与えた。また、1975(昭和50)年には、試合時間が25分ハーフから30分ハーフとなった点も見逃せない。部内においては、昭和38年以来チームを率いてきた池田斉が、1978(昭和53)年に保健体育課に転出した。また、1979(昭和54)年より北信越総体が新たに創設され、6月の県総体の上位チームが新潟県代表チームとなり、新しい目標がうまれた。
一方で、辛い経験もしなければならなかった。1979(昭和54)年の夏合宿中、隅木信利(当時2年)がスクラムにより頸椎損傷の怪我を負い1年近い入院を余儀なくされた。高校生活に復帰後、隅木は本人のたゆみない努力とご家族・クラスメート・部員らの支援により、高校を卒業し筑波大に進学した。
さて、こうした試練の時期を乗り越えた1980(昭和55)年は、大きな飛躍を果たした年でもあった。強力なタックルを武器にしたBK陣を擁し、春の県総体に臨んだ。数年勝てなかった新潟商業を僅差で破り、決勝で新潟工業と相まみえた。多彩なオープン攻撃で再三ゴール前に迫ったが、あと一歩届かず(前半4-10、最終スコアは4-30)。しかし、初出場となった北信越総体では、1回戦砺波(富山)の猛攻を自陣で耐えしのぎ、僅差で勝利をおさめ、決勝では抜群のハンドリング(北信越総体中1本もノックオンがなかった)で下伊那農(長野)の重量FWを自在にかわし、「ほぼ完ぺきな試合(関根監督談)」で優勝をおさめた。
DECADE 4(1981~1990) 覇業の栄
県内高校ラグビーは、新潟工業一強時代が去り、巻高校、中条高校、長岡向陵高校をはじめとした新しい勢力が台頭する「群雄割拠」の時期に入った。本校ラグビー部にとっても、記念すべき一時期となった。
1981(昭和56)年春の県総体は、激しい試合が続いた。準決勝の新潟商業戦は、ノーサイド直前、敵陣ゴール前ラインアウトからNO8五百川がトライし、4-4で引き分け。抽選で決勝への出場権を得た。決勝は、春とは思えない暑い中での消耗戦。僅差であったが、勝負どころでトライを奪い、新潟工業を破って優勝を飾った。前回の優勝は、彼らが生まれた年(昭和38年)であったことを考えれば、実に感慨深い。
しかし、初の新潟県開催(黒川村:現胎内市)と
なった第3回北信越総体では、高岡南に敗れ3位。その翌年度のチームからは部員不足に悩まされ、高い能力を持ったプレーヤーが多かったにもかかわらず、思うような戦績をあげられなかった。
転機は、1983(昭和58)年4月、山中直樹が監督として本校に着任したことで訪れた。山中は東京都出身、日本体育大学卒業と同時に、1964(昭和39)年新潟国体の競技力向上のための有力メンバーとして新潟県教員となった。初任校の新潟工業では、徹底的にFWを鍛え上げ、国体優勝2回、花園で3位を2回。山中は、ラグビー部の立て直しには部員の確保が一番と考え、赴任と同時に体育授業などを通じて熱心に勧誘した。花園初出場のメンバーとなる西尾強は美術部から、角南栄二は水泳部からラグビー部へと転向した。特に、FWのメンバーに大型の選手が多かったことが、その後の躍進につながってゆくのである。
こうして、1年生が大量に入部したラグビー部は一気に活気づいた。上級生が少ないため、1年目から成果を収めることは難しかったが、多くの部員で練習を行うことでチームの戦力が充実し、その様子を見た下級生がラグビー部の門を叩くという好循環がうまれた。翌年は、最上級生の下川純平主将・小林圭一副将がシーズン最後までラグビー部を引っ張った。山中は、「彼らの存在は下級生に大きな励みとなった。花園出場にはこのことが大きかった」と後年語っている。実際、秋のNHK杯は2年生主力のメンバーで、新潟工業に14点差で3位。花園予選では、準決勝で新潟商業に9点差と肉薄していく。
1985(昭和60)年。創部以来、誰もが望んでは得られることのできなかった夢が、ついに花を開いた。大型FWが安定したボールを供給し、県総体では余裕ある戦いで新潟工業を破り4年ぶり6度目の優勝。北信越総体は3位に終わったが、主力メンバーのほとんどが秋以降もラグビーを続ける選択をした。関根以来のチャレンジである。
11月の花園予選は苦しい戦いが続いた。準決勝の高田戦は相手の執拗なディフェンスに手を焼き、トライをなかなか奪えず、20-0。準決勝では巻の攻撃を何とかしのぎ、32-16。ようやく決勝に勝ち進んだ。
決勝は、強風・みぞれ交じりの鳥屋野球技場。トスに勝って風下を選んだ新潟工業に対し、風を利したキック攻撃で相手ゴール前まで迫るが、新潟工業のディフェンスは固く、なかなかトライを奪えない。前半0-0。重苦しい雰囲気がチームを覆った。後半は、新潟工業が風上を生かし、ゴール前で釘付けとなったが、逆にシャープなディフェンスに徹底することで、新潟工業のトライを阻んだ。息詰まる攻防が続く。後半25分。中央付近でPKを得た新潟工業がFWにボールをパスして突進。そのプレーヤーにPR西尾がビッグヒット。相手ロックは出血して退場。このプレーをきっかけに、新潟のディフェンスが前で相手を倒し、ボールは相手にあるが、陣地を少しずつ前進させていく状況となった。抽選必至と思われた後半29分。敵陣左よりハイパント攻撃をしかけ、ボールを受けた新潟工業センターに佐藤が強烈なタックル。ノット=リリース=ザ=ボールの反則を得た。もう最後のチャンス。山中はチームに「狙え!」の指示。キッカーのWTB角南は水を含んだ重いボールをけり上げた。ボールはユルユルとクロスバーを越えた。花園初出場の夢を乗せて。
晴れの花園は、チームにとって大きな試練となった。第1グラウンドでの対戦相手は筑紫丘(福岡)。後に早稲田大―九州電力でプレーし、日本代表選手となった郷田を擁した相手チームに、局面では良いプレーもあったが、結局0-36で押し切られた。
1986(昭和61)年。この年、その後高体連委員長として県高校ラグビーの舵取りを担当した高崎進(73期)が部長として着任した。高崎は山口国体では2年生プロップとして出場した。新チームは小型になったが、BKで相手を揺さぶる例年のプレースタイルを指向するチーム作りが進められた。春は、戦力充実の巻の軍門に下ったが、再び主力の3年生が残ったチームは、NHK杯では余裕ある戦いで優勝。自信をもって花園予選を迎える。やはり、花園を目指す戦いは特別である。思わぬ伏兵に行く手は厳しいものとなった。まず、下越の伝統校水原。大型のFWをもつ水原の攻撃に苦しみ、13-0。準々決勝の中条戦は相手の強力スクラムで再三ゴール前に迫られたが、10-0。準決勝にいたっては巻に終了2分前まで同点だったが、HO横山直行のチャージしたボールをインゴールで押さえてかろうじて逆転勝ち(9-3)。決勝は、再び新潟工業。会場は、新潟市陸上競技場で初めて開かれた。開始2分でCTB後藤が右隅に蹴ったパントをWTB杉浦が押さえて先制。この4点を最後まで守り切って、2年連続の花園の切符を得た。
開会式の興奮さめやらぬ第1グラウンド。相手は佐賀工業。キックオフ直後の1分。陣地をとるための大きなキックが転々とした。このボールをCTB赤沢が奪い、一人かわしてWTB大山へ。大山は左中間インゴールに。これが新潟高校の記念すべき花園初トライである。
しかし、その後は相手FWの圧力に苦しみ、PGで得点を積まれ、4-10で敗れた。「花園で1勝」は宿題として残ったが、この2年で大きな
財産を得たといえよう。
翌年のチームは、春の総体で巻と熱戦を演じたが2点差で敗れ、秋のNHK杯には、新興勢力の中条に3-4で敗れた。スクラムで圧倒され、無理してボールを回して後退するパターンであった。花園予選では、準決勝で巻に敗退。この年は、BKの能力が高かっただけに、NHK杯の1敗に悔いが残る。
1989(平成元)年度のチームは、宮尾正彦(現NECグリーンロケッツコーチ)主将率いる、バランスのとれた好チームであったが、それ以上に巻が「巻高史上最強」ともいえるチームを作っていた。最初の対決は、県総体準々決勝。猛暑の中で、新潟のリードを巻が猛追する展開。ここで新潟が勝利し、県総体は優勝した。しかし、秋以降は充実した巻の前に、NHK杯・花園予選と決勝で敗れた。
DECADE 5(1991~2000) 胸の血潮は燃ゆるなり
県内高校ラグビーは、実力を再び充実させた新潟工業を中心に、北越、巻らの実力校がしのぎを削る一方、少子化の影響が徐々に現れ始め、チームの存続が危うくなる状況が生まれた。特に「スクールウォーズ」世代の高校チームは、指導者がチームを去ると、チームそのものが立ちゆかなくなる状態となった。
1991(平成3)年度は、混戦模様であった。春の県総体はまとまりを欠き4位。新潟開催で出場枠が得られた北信越総体では、1位となった新潟工業と同じブロックであったが、強力なディフェンスで新潟工業を決勝で破り、第2回大会(1980年)以来の優勝を果たした。花園予選は、準決勝で中条の攻撃に苦しみながら9-0で勝ち上がり、決勝は再び新潟工業。前半は3-3。後半新潟工業のPGによるリードを、FWのサイド攻撃で右中間にトライして逆転(7-6)。しかし、トライ後のゴールが外れ、後半25分に新潟工業が再びPGを決めて7-9で花園行きを逸した。翌年は、3年生の大半が春でチームを去っても、金子正俊主将らが残り、花園への夢を追いかける大切さを伝えた。しかし、最後の花園予選では、1回戦で中条に0-12で敗れた。
1993(平成5)年、部長であった関根は定年退職し、10年指導(通信制の時期を含めると12年)した山中は同校内の高体連事務局長に転出した。そして、前年度の花園予選で新潟を破った、中条のコーチの灰野正宏(89期)が着任した。灰野は、高校卒業後新潟大学でプレーし、主将時の1985(昭和60)年には、名古屋(瑞穂)で行われた全国地区対抗大学ラグビー大会で準優勝となった。
この年は、新潟工業が圧倒的な実力であった(1年の県内公式戦で奪われたトライは、新潟戦の1つのみ)が、3年生の多くの主力が残り、花園予選の準決勝では巻と接戦を演じた。翌年のチームは、逆に大半の3年生が春で区切りをつける中、林将人(FL)・富樫誠(FB)がチームに残り、花園予選では、2年生主体のチームで有力校の新発田を破って3位となった。ちなみに、この年の新入部員は9名しかおらず、危機感を持ったチームは、翌年から「ラグビーやろうぜ」というタイトルのパンフレットを初めて作った。そこには、チームの歴史やラグビーのルール、一人ひとりの部員のプロフィールを載せて、新入生全員に配布した。この試みは功を奏し、翌年には19名の部員を確保した。このパンフは、現在もカラー版で発行されている。
1995(平成7)年は、またとない花園へのチャンスであった。チームは前年の春から公式戦を戦い、チームとしての経験値は高く、大きなFWを揃えたチームであった。春の県総体は巻のFWを圧倒して優勝(32-0)。NHK杯も終始相手をリードして3度目の優勝を果たした(37-5)。しかし、当時戦術面でアドバイスを受けていた宮尾正彦(当時筑波大コーチ)からは、「秋に取った得点が増えていることよりも、終了間際に取られた1トライに不安を感じる」とのコメントが寄せられた。この不安が的中するとは、この時チームの関係者の誰一人として思わなかった。
チームは、花園予選の準決勝で戦う新潟工業に照準を絞って練習を重ねた。大会は、シードとして準々決勝から登場。新潟商業には88-7で勝ち、準決勝を迎えた。開始早々、相手のキックオフのキャッチミスを奪い、右に展開してFB遠藤がトライ。このノーホイッスルトライで、ゲームは点の取り合いとなった。前半は同点で折り返したが、後半は新潟の攻撃が決まり始め、WTB田中俊光がフィニッシャーとなる理想的なゲーム展開で新潟工業を破った(45-24)。この得点は、対新潟工業戦での公式戦最多得点ともなった。
予選決勝。強風・曇り空。決勝を何度も経験している巻とこの年3度目の戦いとなる。一方、新潟は花園予選の決勝を経験している選手・スタッフはまったくおらず、事実上初めての舞台といってもよい。この経験の差は大きくチームにのしかかった。試合は、巻が徹底したキック戦を挑み、陣地を粘り強く確保する戦術を選択した。新潟はキック処理に後れをとったが、それでもBKが攻撃を波状的に仕掛け、前半は5-0で折り返した。
この年初めての接戦。SHをつとめた谷川永一郎は、「どうしていいのかわからない状況になった」と述べている。これまで圧倒してきた相手を突き放せない。リードはしているが、心理的に追いかける巻が主導権を握っていた。試合はその後も膠着し5-0のまま後半23分を迎えた。中央付近右、巻のスクラム。巻は⑨-⑩とボールを動かし、内側のセンターが開きながらボールを受け、そのまま新潟ディフェンスの裏に出た。FB遠藤を十分に引き付けて、サポートにパス。そのまま右中間を陥れた(ゴール成功:5-7)。ここからチームは全力を挙げて得点を狙い、再三ゴール前まで迫ったが、得点を奪うことができず、そのままノーサイド。
選手は本当によくやった。花園に行ける実力、いや1勝できる地力は十分に備えていたと思う。負けたとすれば、準決勝以降の気持ちの持っていき方や当日のゲームプランを部員に徹底させることのできなかったスタッフにある。厳しい言い方をすれば「指導者の差」が出たゲームであろう。
1996(平成8)年は、少ない上級生でよく頑張った。県総体では4位だったが、新潟開催の出場枠で北信越総体に出場し、ブロック2位の成績を収めた。また、この年の夏にラグビー部創部50周年記念式典が行われ、記念講演にはラグビー部OBの大野晃(74回)が高校時代の思い出を語り、現役生にエールを送った。
1997(平成9)年度のチームも、上級生が少なかったが、SO小田島高広を中心にBKの素早い展開力で勝負できるチームとなっていった。春の県総体では、優勝した巻と互角に渡り合い、ノーサイド寸前に同点トライを取ったが、ゴールに失敗。トライ差で惜しくも出場権を逸した(39-39)。この年のチームから、1980(昭和55)年以降中断してきた菅平合宿を、残った3年生も含めて再開した。秋のシーズンは、NHK杯・花園予選と準決勝で新潟工業に善戦するも敗れた。この年に残った3年生のうち、佐野善和(SO)は目の怪我のためプレーを断念せざるを得なかったが、最後まで部員たちを支えた。
1998(平成10)年のチームは、前年以上に高い力を備えていた。春の準決勝では、強い風の中、巻を追い詰めたが及ばず。このチームは、その年に花園出場した北越と互角の勝負をしていただけに、全員が春でやめたことが惜しまれる。その春から2年生として引き継いだチームは、笹川敬史主将・藤巻伸副将のリーダーシップでチームがまとまっていった。この時期は、参加チーム数が激減し、大会のたび同じ相手と対戦する状況が続いた。それが新発田高校であった。2年生時には2回対戦して大敗。新チームも初の花園を狙う新発田の大型FWに新人戦から蹂躙され続けた。県総体でも新発田に敗退。しかし、これほど走った学年もなかっただろう。1999(平成11)年の夏は、合宿後も新潟大学と合同練習を続け、課題だったFWが急成長した。
勝負の秋。NHK杯では再び大差がついたが、「もうあきらめない。」花園予選では、怪我をしていた笹川主将も復帰。万全の体制で準決勝の新発田戦を迎えた。最初のマイボールスクラム。「押されていない。」前半5分、相手ゴール前ラインアウト。平均で13.5㎏軽いFWがモールを押して先制トライ。しかし、その後は新発田の強力FWが徐々に力を発揮し、前半は5-10。後半に入ってすぐにチャンスが訪れた。相手ゴール前中央で新発田がペナルティ。このキックからモールを組み、押し切ってトライ。ゴールをCTB清水良樹が決めて逆転。このリードを20分間耐えて勝利。決勝では新潟工業の大型FW相手に健闘したが、最後にリードされ万事休した(9-31)。この年のチームは、校舎改築のためグラウンドが使えない状況を逆手にとり、力のあるチームと積極的に練習や試合を行い、チーム力を上げていった。
2000(平成12)年は、逆に素材では実に高い潜在力を持ったチームであった。春の県総体では、巻を最後までリードしながら、ラストプレーで主将が痛恨のオフサイド。このPKを決められ、3点差で敗れた(30-33)。気持ちの重要性を思い知らされた。
DECADE 6(2001~2010) 行手はるけき
2001(平成13)年は、高橋憲正主将がチームを率いた。少ない人数ではあったが、意識の高い選手が多く、成績とは別に「熱い」気持ちで練習や試合に臨んでいた。沈滞したムードを変えようと、「えび茶」のチームバッグを作ったり、横断幕(「燃えよ丈夫栄光へのトライ」)を作成したのもこの学年である。2002(平成14)年のチームは、西田良一の強力なリーダーシップのもと、安定した成績を残したが、この年は新潟工業と巻の実力が突出しており、花園への夢は後輩に託すこととなった。
2003(平成15)年に、10年在籍した灰野が新発田高校に転出し、長谷川栄一が監督となった。一人ひとりの能力は高かったが、春の県総体では、前年の新人戦で40点差をつけて勝っていた新発田農業にまさかの逆転負け。翌年のチームは、監督が宮田佳則(87期)となった。宮田は新潟高校出身。高校時代はラグビー部員ではなかったが、母校赴任と同時に灰野とともにラグビー部を指導してきた。チームは、前年春からの経験値もあり、春季地区大会で優勝。春の県総体も順調に勝ち上がり、1995(平成7)年以来の決勝に進んだ。決勝の新潟工業戦では、セットプレーの劣勢を軽快なバックス攻撃でかわし、あわや番狂わせか、と思われる時間もあったが(前半は0-7)、結局0-26で準優勝となった。春の北信越総体では、得意のBK攻撃が炸裂し、金沢桜丘を71-0で難なく下し、決勝も鶴来(石川)を寄せ付けず(44-7)、3回目の優勝を果たした。秋は、実力のある3年生数人が残って大会に臨んだが、準決勝で北越の軍門に下った。この年は中越大震災で花園予選の期日が大幅に変更になったことも印象深い。
2005(平成17)年、押木洋(87期)が監督に着任した。押木は新潟高校卒業後、筑波大学でもラグビーを続け、1983(昭和58)年新潟県教員に採用され、その年に創立した長岡向陵でラグビー部を立ち上げた。その後、新発田高校、新潟東高校、巻高校でラグビー部を指導した。この年は3年生11名、2年生5名のわずか16名であったが、西田善郎主将をはじめ潜在能力の高い選手が多く、新人戦で久しぶりに新潟工業を破り(24-19)、北信越新人大会にも進出した好チームであった。「北信越制覇、打倒岡谷工業」を合言葉に地区大会もブロック優勝し、春の総体に臨んだが、準決勝の新発田戦でロスタイムに同点に追いつかれ引き分け(12-12)、抽選で決勝進出を逃し3位で終わった。総体後は3年生5人が引退し、1年生を入れたメンバーで臨んだが、NHK杯、花園予選ともに北越の前に涙をのんだ。なお、西田主将は2年続けて新潟選抜に選ばれ、埼玉、岡山国体でも活躍した。2006(平成18)年のチームは新人戦を14人で戦うなど苦しい状況であったが、長谷川翼主将が下級生主体の若いチームをよくまとめ、善戦した。
天井洋平主将が率いた2007(平成19)年は、春の総体で新人戦準優勝の新発田に競り勝つ(24-19)など好チームであったが、総体後3年生が4人となり、秋に結果を残すことができなかったことが悔やまれる。なおこの年創部60周年記念のOB戦が新潟市陸上競技場で行われた。記念講演はスポーツライターの藤島大さんが「知の熱」という演題で現役部員を激励してくださった。
翌年のチームはジュニア経験者のSO吉田駿主将や県選抜にも選ばれた勝見壮をはじめ、20名近く入部した代が3年生となり、期待された年であった。よく走る選手が多く、県総体では準決勝で新潟工業に敗れたが、新潟県開催の北信越総体では、下伊那農業に僅差で敗れはしたものの、3位決定戦では若狭高校に圧勝し、Cブロック3位となった。3年生が11人残り、新潟大学OBの徳永拓実(巻高OB)のコーチングを得て力をつけたチームは、当時9月に行われていたハイスクールラグビーで優勝し、気勢をあげたが、花園予選では副将のPR鴨田を怪我で欠き、後のジャパンPR稲垣を中心とするFW勝負の新潟工業に再び敗れ、3位に終わった。2009(平成21)年は、真面目に上を目指すチームであったが、6月で3年生11人中9人が引退し、残った上石主将の下、1年生も含め17人で花園予選を戦わざるを得なかった。
2010(平成22)年、濱藤直人(94期)が着任し、監督となった。濱藤は、1985(昭和60)年度花園初出場時の主将で、卒業後は立教大学体育会でラグビーを続け、教員となって中条、新発田南でラグビー部を指導した。この年の3年生は、主将の伊藤悠理をはじめ、ジュニアラグビーの経験者が3人おり、その他の選手も能力の高いチームであった。3年生が4人残った秋シーズンも随所に好プレーの見られる試合を展開するものの、結果を出すことができず、潜在能力が高かっただけに、悔いの残るシーズンであった。
DECADE 7(2011~2018) 天は晴れたり
全国の高校ラグビー部員数が急速に減少の一途をたどり、花園予選出場校が激減する中、県内高校ラグビーの状況も同様である。本校でも部員の確保は毎年の最重要ミッションとなっている。
そのような中、2011(平成23)年のチームは、1~3年生で30名をこえる部員数を数え、練習にも活気がみなぎっていた。春の県総体では、シード校北越相手に、横山功樹(FB)の再三にわたるラインブレークとしつこいサポートでトライを奪い、前に出るディフェンスで相手に刺さるなど、見るものを沸かせたが、2回戦で敗退となった(20-41)。秋のシーズンは古西広明主将や横山など4人が残ったが、1年生を含めた布陣では実力校の新発田南に善戦はしたが(14-26)勝ちきれなかった。
なお、この年、新潟・長岡・高田の3校により鼎立戦が行われることになり、第1回鼎立戦は新潟の優勝であった。
勝ちきれない原因を、トライの取り方と接点だと確認した新チームは棚橋春喜主将のもと、冬の練習をスクラム、モール、接点の強化にあてた。迎えた県総体。1回戦で新発田農業に競ったものの、2回戦の北越相手には、敵ボールの密集を棚橋が奪いサイドを鋭く突き、また、ラインアウトからのモールを押し込みトライを取るなど、冬の練習の成果があらわれ、終始圧倒する戦いとなった(38‐26)。準決勝は、近年最強といわれた新潟工業。試合は新潟のキックオフで始まった。このボールを新潟工業がファンブル。すかさず新潟がセービングでこのボールを確保し、素早く右展開。1開きで第1CTB石田が綺麗に相手BKと入れ違い、ゴール前で第2CTB結城にパスし、トライ。開始早々のこのトライで活気づいたチームは再三速い展開を重ねるが、サポートが少しでも遅れると容易にボールを奪われそのボールをことごとくトライにつなげられて、最終スコアは14-111となってしまった。総体後、3年生は棚橋主将と、春シーズンは怪我のために試合に出ることがなかった須貝英輔(LO)の2人だけとなったが、素早い展開と前に出るディフェンス、接点での踏み込みに自信を持ったチームは、花園予選に向けて練習を重ねた。花園予選直前に、小島拓也(LO)が戻り、3年生は3人となって臨んだ花園予選。最初の試合は、台風の目、強力FWの中条。不利が予想される中、接点で圧倒し、再三敵ボールを奪い圧勝。準決勝はまたも新潟工業。総体と同じように、素早い展開をみせ、ラインブレークするが、サポートが薄くなるところをターンオーバーされ逆襲。春と同じ結果となってしまった。しかし、一つの方向性を示せたシーズンであった。
2013(平成25)年、8年間在籍した押木が新発田南高校に転出した。山田駿主将の率いたこの年のチームは、3年生の人数も多く、試合経験も豊かで、前年度の素晴らしい戦いを見せたチームから3名抜けただけであったので、期待された代であった。しかし、攻撃力があり、どのチームからも得点を取れたが、その反面、ディフェンスでのコミュニケーションに難があったのか、失点も多く、県総体では1回戦新発田南に52-45、2回戦北越には、終始地域的にも内容的にも押し気味であったが、24-43という結果であった。「チームは生き物」と思えた春シーズンであった。総体後は4人の3年生が残り、少ない1・2年生をよくまとめ、リーダーシップを発揮してくれた。
この年の1・2年生は、15名に足りず、新人戦のNHK杯から、翌年度の県総体まで、テニス部から2人のプレーヤーを借りての出場となった。また、主将の星野祐一は、県選抜に選ばれるなど、精神面・プレー面でのチームの支柱であったが、膝の怪我のため常時出場することができず、苦難のシーズンとなった。この時に“助っ人”として参加した、谷口智洋(県総体時2年生)は、総体後は正式にラグビー部に入部し、プロップとして3年生の最後まで残り活躍した。
2015(平成27)年、谷川永一郎(104期)が監督として着任し、部長の濱藤と2人3脚で指導にあたることとなった。谷川は、教員となり高田高校に赴任すると、休部状態であったラグビー部を復活させ、ベスト4に入る土台を作り、新発田農業に転出すると、個性あふれる選手をまとめあげ、着実にチーム力を上げるなどその指導力を発揮していた。
この年は小野賢人主将を含め、局面を打開できるランナーが3年生、2年生に数名おり、3年生は6名しかいなかったが、全員が花園予選まで残り、谷川監督のもと着実に力をつけたチームであった。また、近年の県内高校ラグビー界最大のニュースとなった、開志国際高校の創部・出場も、この年であった。オーストラリア人留学生2人とジュニアラグビー経験者を多く含む開志国際とは、花園予選2回戦で当たり、オーストラリア人留学生にしばしばゲインされたものの、しつこいタックルで守り、攻めては、小野、増田啓泰(FB)の突破、関東宜記(WTB)のトライなどで勝利を収めた。
2016(平成28)年のチームは、前年度からの練習が力となっていることを示した年となった。3年生は、1年生の時から上の代の人数が少なかったことから、試合経験が豊富で、谷川監督の細かな指導のもと、実力をつけ、県総体に臨んだ。2回戦で巻に19‐17で競り勝ち、準決勝では新発田に敗れたものの、3位決定戦では、NO8金塚大輝、FL入田凌らFWがサイドを突き、BK陣の強烈なタックルでピンチを脱するなど、終始北越を圧倒し、2005(平成17)年以来の3位となった。開催枠での出場となった北信越総体。1回戦の羽咋工(石川)戦では、緊張からか動きが鈍く、レフリングにも戸惑いがみられるなか、力を発揮できぬまま試合が終わってしまった(14-47)。翌日の3位決定戦の高岡第一(富山)戦でも、本来の動きがみられないまま後半も過ぎていった(12-19)。このまま試合が終わると思われた、試合終了直前、中央付近で得たペナルティをSH石山達士主将がクイックタップ、大きく右に展開し、パスを受けたWTB土田佳史が快足を飛ばし、敵を振り切ってトライ。ゴールも決まり3位を確保した。
2017(平成29)年、7年間在籍した濱藤が長岡高校に転出した。この年の早藤昂主将率いるチームは、FWの平均体重が80㎏を越え、体格を見れば“新潟高らしくない”チームとなった。大型FWとSO関原泰河の的確なキックで試合を優位に進め、従来の早い展開にスマートさを身に着けたチームであった。春季地区大会でBグループ1位となり、県総体の第5シードの位置につけると、総体では第4シードの長岡工を破り、準決勝では新潟工業に敗れたものの、3位決定戦では新発田に勝利し、2年連続の3位となった。3年生のほとんどが残った花園予選では、北越に勝利し、準決勝では、3年生となったオーストラリア人留学生擁する開志国際に真っ向勝負で挑み、惜敗した。しかし、年間を通して安定した戦いぶりであった。また、この年の8月にはイングランドからAbindong高校を迎えて創部以来初めての国際親善試合を行い、ホームステイ受け入れなどを通じた国際交流をおこなった。
次の松本龍樹主将率いる新チームになると、またしても15人そろわなくなってしまった。“助っ人”を得て臨んだ新人戦(NHK杯)。両CTBの厳しいタックルと、クレバーなキックで新発田、巻と勝利し、3位。2018(平成30)年度春季地区大会でもAグループ3位を死守し、迎えた県総体。ここでも、しつこいFWの動きと厳しいディフェンスを随所にみせ、3年連続の3位となった。少ない人数でも、一人ひとりが的確に動き、また、集中力をとぎらせることなくディフェンスできるチームとなっていることは特筆に値しよう。
また、7月にイングランドのTrinity高校との親善マッチを行いホームステイ受け入れなどを通じた国際交流をおこなった。
※略年史は『新潟高等学校ラグビー部創部60周年記念誌』に修正・加筆をしたものとなっております。(編集担当:濱藤直人(94期))
参考文献 『新潟県立新潟高等学校ラグビー部創立40周年記念誌』
『新潟高等学校ラグビー部創部60周年記念誌』
『新潟県高等学校体育連盟年報』『青山百年誌』
『青山新世紀 校舎竣工及び110周年記念式典』
- ホーム >
- 青山ラガークラブについて >
- 沿革